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こんにちは。ライフ盛岡スタッフです。
岩手の偉人、今回は久慈次郎をご紹介します。


日本野球の黎明期を代表する捕手であり、
現在も都市対抗野球大会の敢闘賞に名を残す久慈次郎

1898年盛岡市の出身です。

旧制盛岡中学(現県立盛岡一高)を卒業後、早稲田大学に進学。
早稲田時代は強肩と抜群のリーダーシップを発揮します。

大学卒業後は北海道函館市で就職し、その傍ら社会人野球チーム
函館太洋倶楽部」(函館オーシャン)に入団。

昭和に入り、現代に続く「都市対抗野球」が始まると、
たびたび出場を重ねて人気を博し、
1930年からは監督兼任となり、この強打の名捕手兼監督は新聞に
「御大」と書かれるほど存在感があったそうです。



1934年の日米野球では「日本プロ野球の始まり」ともいわれる
静岡・草薙球場での試合でベーブ・ルースやルー・ゲーリッグのいた
アメリカ選抜チームを相手に若き沢村栄治投手をリードし、大いに苦戦させました。

そしてこの年、日本プロ野球当時は職業野球)の創設にあたり、
誕生した現在の巨人軍に久慈は「主将」として参加を要請されますが、
同年に函館市を襲った大火から同市を離れる決意ができず、
この話はとなりました。

その後函館市議にもなり、実業家としての活動もしながら函館オーシャンを率い、
活躍していましたが、1939年8月札幌での試合中牽制球を頭部に受け、
誠に惜しまれる死を遂げました。


余談ですが、函館市の「函館オーシャンスタジアム」には
捕球体制をとる彼の銅像が建っており、私も函館旅行の際見学しましたが、
岩手県民としては誇らしい気持ちになったのを覚えています。

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